
地方分権とコミュニティ
中田実(名古屋大学教授)
1. 分権化への不安の1つの背景
集権型国家であるわが国で、いま、法律の後ろ楯をもった地方分権の推進という画期的な事業が進みつつある。世界的な経済の変動、少子・高齢化の進行による社会の深部での構造変容、廃棄物や地域開発をめぐって見られる地域自立の動きなど、地方分権を要請する社会的「情勢」はますます熟しつつある。それでは、分権を要請する社会的「主体」もますます熟しつつあるのかといえば、こちらは必ずしもそのようには見えない。国の権限をどう配分するかについての議論はあっても、その権限をどこが受け止め、どのように行使して「分権型行政システム」を作っていくのか、その際、住民には何が可能になり、また何を期待されるのかが、一向に見えてこないのである。歴史的な大転換のはずなのに、権利を手に入れる側の自治体や住民の、この盛り上がりのなさはどうしたことか。
思うに、その1つの理由は、この事業が画期的であるだけに未知の要素が多く、それだけに対応が慎重になっていることにあるであろう。長らくなれ親しんだ方式は、たとえ問題があったとしてもそう簡単には手放せない。昨年6月にPHP総合研究所が行った全国市町村長を対象とした調査で、権限や財源の委譲への対応について、自治体が「規模・能力を有している」と答えたのは9%に過ぎなかった(『朝日新聞』96.12.19)。その背景にある心情の一端を示したのが、地方自治経営学会の行った調査への次のような回答であろう。「市が直接許認可することになった場合の住民圧力を考えると、国や県が権限を持つというワンクッションがある形の方がやりやすいというのが現場の声だ」(田島義介『地方分権事始め』岩波新書、1996、182貢)。
地方分権は、まさにこうした地域に密着した意見が容れられやすいシステムを作ろうということであろうが、同時に、現場にいる自治体職員の苦労も察して余りあるものがある。個性ある地域の活力ある発展を考えれば、分権化は避けられない動きであるが、そのために解決しておかなければならない課題も少なくない。その1つが、住民と行政との不幸な対立の克服と、両者が協力しあうパートナーシップの確立である。阪神淡路大震災の折りに、自らも被災した行政は被災市民の要請にはなかなか応えられず、それまでの役所まかせともいえる行政過信は一転して不信に変わった。神戸市内で見られたように、市や区の職員が避難所に配置されはしたものの、怒涛のような住民の要求にたいしていわば逃げ回る姿が浮かび上がった。しかしこの時でも、神戸のまちづくりの先進地であった真野地区では、消火、救助、炊き出し、物資の分配、警備等を自主的にすすめる住民のそばに市の職員の姿があり、両者は密接な協力関係を維持していたといわれる。そのバックには、地域では住民が主体で行政は住民を支援する立場という「行政参加」(行政への「住民参加」でなく)の原理が貫かれてきたことがあった。議員についていわれると同様に、どのような行政をもつかはどのような住民がいるかに規定ないし相互規定されるのである。ここでの住民は、個々の住民個人というだけでなく地域住民組織の確立と成熟を意味している。自らの組織を自治的に設立・運営できる住民の力次第で、行政の発揮できる力も異なってくるのである。
地方分権を行政内部の権限の再配分に止めず、住民の生活にかかわるさらに深いレベルに及んで推進するためには、住民(組織)自体の自己改革と、そのための住民と行政との関係や相互作用のあり方の見直しが必要である。コミュニティづくりにも一段の発展が求められているので